片倉城跡

城跡の多く確認できる南東側は数十年前から藪が繁茂していたため全体像を見ることはできませんでした。

ニュータウンアーバンビレッジパークでは二年目、敷地境界調査をきっかけに下草刈りを少しづつ行い拡張していきました。

その結果、大きく深い堀、そこから枝分かれした小さな堀、斜面を縦に拒む堀、櫓台、のろし台、曲輪、土塁、土橋などが確認できるようになりました。

近所の方からの話から城郭のがけ下に昔の道なども確認、通れるように藪を刈っていきました。

作業していてもこのような昔の遺構の姿が見えるようになってくると発掘作業をしているような気分になり楽しくなってきます。

課題として巨大化した雑木、それによる遺構の破損を防ぐような管理をしていきたいと考えてます。

今後確認できたものから少しづつご紹介していきます。

 

東京都指定史跡

片倉城跡(かたくらじょうあと)

所在地 八王子市片倉町二四二二

指定

昭和十一年三月 標識指定

平成十一年三月三日 史跡指定

片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方向に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性があります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。『新編武蔵風土稿』などでは応永年間(1394-1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とありますが、確証はありません。築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から十五世紀後半以降に築城され、十六世紀代に廃城となったと推定されます。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。

 

平成二十二年三月 建設

東京都教育委員会

土橋

堀を掘る際に、一部を土のままに残し通路として使ったと言われる所で、当時はもっと狭く、敵の進入を二の丸方向側面から攻撃ができるよう工夫していたのではないかと思います。

二の丸東側、大手道の起点が良い状態に残っています。

 

二の丸広場東側の出口から北側に回るように伸び、南外側にある築山のような盛土を囲うように枝分かれしています。

深さは二の丸広場東側の出口のあたりで3mくらい、中央部盛土頂上部から5mくらい、二の丸広場側は最大10mくらいになります。

シノ竹を刈る前は、人が入れないほど繁茂し、このような城跡があるとは気が付きませんでしたが、今は散策できるようにしてます。